田代山は2007年8月30日に尾瀬国立公園の一部として国立公園に指定されました。

田代山はなぜ台地状になっているのでしょうか?

①今から数百万年前に、田代山付近で大規模な火山の噴火がありました。
②噴火の際に、火砕流が起きました。火砕流は山も谷も埋め尽くして広い範囲に堆積しました。
③堆積した火砕流は熱で溶けて固まり、溶結凝灰岩の層をつくります。
④この堆積地は、長い時間に侵食を受けて、地質の弱いところは削り落されて一部が台地状に残ります。
⑤田代山は、このような過程を経て形成されました。この台地を火砕流台地といいます。

田代山形成過程の模式図

田代山山頂には、なぜきれいな花の咲く湿原があるのでしょうか?

①田代山の台地面に数百万年の間に火山灰等が降り注いだりして薄い土壌ができ、植物が生育できる環境になりました。
②植物を潤す水は雪解け水や雨水だけで、栄養状態もよくありませんでした。
③さらに、高い山のため低温で植物の遺体は分解が遅く年々蓄積していきました。この蓄積した層を泥炭層といいます。
④田代山山頂には、長い時間の間に泥炭層が発達し、その環境の中で生育できる植物が、きれいな花を咲かせています。
※泥炭層の発達速度は、駒止湿原の例では、1年間でわずかの0.17㎜です。泥炭層1㎝発達するのに約600年という時間がかかります。

湿原断面模式図

田代山のいわれ

 田代山は、1912年7月30日に開山されたと伝えられています。この日、高野山の2人の高僧が地元の神主が伴って、まだ登山道のない田代山に登り、弘報大師の像を山頂に祭ったことによります。
 この時の神主が、田代山ふもとにある湯ノ花温泉地区の大山善八郎時澄です。時澄は仏門に帰依し、山の頂上に「大師堂」を建立しました。(現在の田代山の山頂にある避難小屋になります。)小屋の奥には弘法大師の座像が祭られています。弘法大師の座像は田代山に一体、そして湯ノ花地区の共同浴場「弘法の湯」に1体、あわせて2体の座像があったのです。
 共同浴場「弘法の湯」に納められた1体は、地元の人たちに篤く信仰されてきましたが、残念ながら盗まれてしまいました。現在、浴場の天井には、大師像を運んできた当時のかごが残っています。そのかごや大師堂を大切に管理しているのが、時澄の子孫大山佳伸さんです。
 「新編会津風土記」には、「山中ニ広キ原アリ、其の中ニ田畝ノ遺形アリト伝」と記されており、田代山頂には、耕された田畑もあったといいます。奥会津只見では「田代山に雨が降ると川が赤くなる」と信じるお年寄りが今もおり、とにもかくにも田代山は古くから会津の人たちに信仰されてきた山でありました。

田代山の天狗伝説

 田代山の山頂湿原には、ハイマツやネズコなどの灌木(かんぼく:背の低い樹)ととび島のように生えており、この一角に「天狗の庭」と呼ばれているところがあります。
 そのむかし、田代山南側の斜面にある鳥居岩とよばれる岩の横穴に小天狗が住んでいました。その小天狗はよくこの場所で遊んでおり、山に登ってきた村人を驚かせていたそうです。

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